どうやら元は茶道の師弟関係を表す言葉らしいのですが、
師弟関係とは別に、個人のスキルを3段階で表す際にも使われる言葉だそうです。
僕は過去に色々な師匠的な(あくまでも「的」な)人から音楽の技術を学んできました。
といってもそんな大げさなものではなく
一番分かりやすいので言うとピアノ教室に子供の頃から通ってたのとか。
ただ、本格的に「師」と思えるような出会いというのは
意識的に求めないとないもので
師匠という存在がきちんとできたのは今から5年ほど前のことでした。
以来、その特定の1人の師匠だけではなく、
素晴らしいクリエイター(スキルはもちろん人格面など含め)の先輩方にもまれて
今も研鑽を続ける日々を過ごしています。
また、色々なご縁がありプライベートでは後進の育成。
・・だけでは実はなくて、最近では自分よりも大先輩に値するような人にまで
指導する機会までいただくようになりました。
僕の様な若輩者が、40代・50代・60代の
それも日本の音楽会に大きく貢献してきたような人にまで指導をさせてもらえる
・・なんて自分でも驚く状態に至れたのは確実に師匠との出会いのおかげだと思っています。
さて、本題。
守破離(しゅはり)を見極めないと
クリエイターは死にます。
ちなみにここで言う「死ぬ」っていうのは物理的な意味ではありません。
クリエイターとしての成長・活躍・将来性が見込めなくなる
と思ってください。
というのも、最近色々な情報がありすぎて
それに振り回されてるクリエイターをちらほら見かけます。
最近、特に活躍しているクリエイターやエンタメ関係の方、情報発信者が言うことに
「自分がとにかく好きなことをしろ」
「やりたくないことからは逃げてもよい」
みたいな感じの主張があります。
ミュージシャンや漫画家・デザイナー。
起業家で言うと堀江貴文さんやひろゆきさんとか。
その他にもツイッターや書籍などで
多くの人がこのテの発言をしています。
で、僕はこの方々の発言についてその意図を含め
“前提として賛同している”のですが、
時々クリエイター志望の方が
こういう類いの主張を自分にとって極めて都合良く解釈してしまう
のを見かけます。
特にクリエイターとしての技術がまだ拙い人に見受けられる傾向で
こういう解釈で過ごしている自称クリエイター希望を見かける度に大変残念に思っています。
というのは、
彼らが主張していることの本質は
「守・破・離」 でいう所の 「離」 なんですよ。
ウィキペディアにラーメン作りにおける「守破離」例があって
これがとても分かりやすかったので引用します。
〜 例(ラーメン作り) 〜
守:ラーメンをレシピ通りに作ることができる。
破:ラーメン(守の段階で作ることができるようになったラーメン)のスープや麺、具材等をよりおいしくアレンジすることができる。レシピもより作りやすいようにアレンジすることができる。
離:ラーメン店を開業し、オリジナルのラーメンを作ることができる。あるいは、ラーメンから進化した新たな料理を作ることができる。
はい、「離」になって漸くオリジナルのラーメンが作れるようになります。
この段階になってようやく、「進化した新たな料理」を作ることができるとありますね。
つまり、ずばり言ってしまうと「守」「破」を踏んでない人は「離」ができません。
やろうと思っても的外れなモノになります。
これを言い換えると「守」「破」を踏んでない状態では
「本当の意味でのオリジナリティは出せない」
「その段階で出す“自分らしさ”はただの独りよがり」
になる可能性が高いのです。
ではこれをクリエイターのスキルとして当てはめると
守:一般的なフォーマット・作法に従って作ることができる。
破:より魅力的にできるような技術を一通り身につける。
みたいな感じになるでしょうか。
で、これができてるかできてないかのジャッジなんですけども
一言で言うと、素人見せた時に(義理とかではなく)お金を払おうと思われるか?
というところに到達しているかだと僕は思っています。
例えばホリエモンこと堀江貴文さん。
破天荒な発言をしている変な人・・みたいに誤解されがちな方ですが
冷静に見ると、高校卒業後現役で東京大学に進学しました。
なぜなら「東大」って肩書きがあればビジネスや人脈構築に有利だろって戦略を持っていたからです。
だから東大に入れるように準備をして無事現役で入学。
目的は果たせたので、そしたらわずか数ヶ月で即退学をしたそうです。
そして、そこから起業するために人に頭を下げて資金を用意して
ビジネスを始める・・たしか僕の記憶ではそんな流れだったかと思います。
つまり、いきなり勝手気ままに好きなことをやりはじめたのではなく
好きなことをやるために、その人生の時期において
第三者を説得できるだけの技術と実績を先に作っといたってことですね。
それを18歳の時にさっさと作り上げたからこその今があるわけです。
ひろゆきさんにしても、ミュージシャンにしても漫画家にしても
デザイナーにしてもやってることの根っこは変わらないと思います。
つまり、ぶっとんだ発言をしている人は
大前提として人を楽しませたり
満足させた結果お金を貰えるだけの技術・発想力があったり
リーダーシップがあったり
人に期待感を抱かせるだけの背景を作る、という前提のもとで
「好きなことをしろ」
と言っているのです。
冷静に考えてみて欲しいのですが
例えば全然ファンがいない食えないバンドマンや漫画家志望者、
スキルも低くて、バイト暮らしで食いつなぐようなフリーターが
「好きなことをして生きるべき!」
と言っていたとして、耳を傾けようとはなかなか思わないのではないでしょうか。
なぜなら、その人は本当には
「好きなことをして生きていけてない」から。
ではなぜ生きていけないのかというと、
その好きなこと(バンドだったり漫画だったり)で稼げてない
=人を楽しませるだけの技術もなければ感性もない
からなのです。
つまり、一定の説得力がある人がいう
「好きなことをして生きろ」
というのは、少なくとも対人における
最低限の技術を身につけていくことが大前提としてあるのです。
さて、改めて冒頭の
「守破離(しゅはり)を見極めないと死ぬ」
この本題について僕の個人的な意見を最後にまとめます。
つまり、世の中で発信されてる“クリエイター向け情報”の中にはそれぞれ
「守」が大事だよという意見と
「破」が大事だよという意見と
「離」が大事だよという意見
この3つのウチのどれかが強く打ち出された情報が混在しています。
そして、それぞれの主調は
部分的に見ると異なることを言っているように見えます。
見る人によっては派閥のように見えるかもしれません。
しかし実態はそうではなく、全てが1つに繋がっているのです。
ということは、クリエイターは自分自身が今どのステップにいて
どこを意識すべきかの見極めができる必要があるのです。
ありがたいことにこの何年間で多くの方々を指導してきましたが
この見極めができずに自分のステップに沿ってないところに
トライしている人は、成長が完全に止まってしまうのです。
なんて恐ろしいのでしょう。
といっても基本的に、守破離は師匠的な人がいればすみやかに解決します。
しかし、師匠的な人がいない人が
この断片化された
「守」が大事だよという意見と
「破」が大事だよという意見と
「離」が大事だよという意見
と遭遇してしまうと。
場合によっては、自分にとって最も都合の良い所
だけをを拾ってしまいがちかもしれません。
それが時には的外れな解釈をしている可能性があるのです。
ちなみに「時には」と書きましたが、
心理学的に見て
「人間は自分にとって都合の良い意見を選んで集める傾向」
があるそうですので
伸び悩んでるクリエイターは大体当てはまってるのではないでしょうか。
それでも
「いやいや、師匠なんか俺には必要ないね!」
「誰かに教わるなんて自分の色味がなくなってしまう」
という方も世の中にはいるでしょう。
中には才能があってセンスがあって
誰にも教わらなくても伸びていくバケモノみたいな人もいると思います。
で、そういう人は別にいなくても良いと思いますよ。
ぜひ自分が思うがままに突き進んで欲しいと思います。
だって、そういう人は無意識のまま人を楽しませるだけの技術が
すでに身についてるわけですから、僕の話なんかスルーで良いと思います。
でも、自分自身で伸び悩んでるな〜
って思っている人は別です。
そのまま行くとクリエイターとして死にます。
割とマジで。
人それぞれ事情や考え方があるのは分かりますが・・・
なんだかんだ理由をつけて師匠的な存在にテコ入れされないまま
過ごしている人を時々見かけます。
せめて、守破離のセルフ見極めをしようという意識があれば良いのですが
セルフ見極めもおろそかにし、都合の良い意見のみに耳を傾けて
そして第三者の師匠的な存在を探そうとも、頼ろうともしない人は
大体何年間も変化が小さくうだうだやってます。
そしてクリエイターとして大して見向きもされず
自分の技術で人を大して喜ばせることもできず
ガンガン伸びていく周囲の仲間、自分より年下を見て
「すごいなぁ」
とポカーンと眺めてる日々。
指導してる立場であり、自己研鑽している立場として言わせて貰うと
普通にとりくんでたら、それなりに自分で自分を誇らしいと思える位には
普通に上達しますからね。
年数と比例して。
なので、そういう実感がわかないとしたら
それは普通に取り組めてないのです。
取り組み方がどこかおかしいのです。
だから自分よりも若い子や歴の短い人にガンガン抜かれていくのです。
冷静に考えてみて欲しいのですが、
・スポーツ選手
・アスリート
・棋士
・落語家
・お笑い芸人
・漫画家
世界的に見てもトップレベルの人で
誰からも教わらなかった人ってたぶんいないと思います。
純粋な才能だけで伸びた人は皆無でしょう。
今話題の藤井聡太さんだって子供の頃から多くの人に教わっています。
オリンピックや甲子園などで活躍した人で
人に指導を受けた経験がない人ってどれくらいいるんでしょうね。
仮に極一部の例外がいたとして、指導経験がある人とない人の比率はどれくらいでしょうか。
1000:1・・・いやもっとかな?
10000:1、あるいは100000:1とかかもしれません。
いずれにせよ指導された経験ゼロで上り詰めてるひとはほぼいないと思われます。
ということを考えると、
大して芽が出てない人が
誰にも教わらない(=本やネットの情報だけで済ませて、テコ入れを求めない)
と言う在り方は僕にしてみると
「俺は金メダリストや羽生善治より凄いからそんなものはいらん!」
とふんぞり返ってるのと同じように見えるのです。
どうでしょう。
そう考えたらヤバくないですか?
ただ、これを逆に言うと
伸び悩んでる人がなかなか上達の実感が湧かないのは
別に才能とかセンスの問題ではない・・とも言えるのです。
なので、取り組み方次第ではいくらでも挽回が可能ってことなんですよ。
とどのつまり、
クリエイターとして生きるのも死ぬのも本人次第ってことです。
ただそれは才能とかセンス次第という話ではない。
生きよう(伸びよう)と思えば誰でも伸ばせる余地はある。
従って、クリエイターとして死ぬというののは、
本人が自ら死のうとしている時にしかおきないのです。
つまり、これはゆるやかな自殺なのです。
数十年かけて進行するので、たぶん当事者は自覚しづらいかと思います。
この数年間でクリエイターを志す人と何百人…?1000人くらい?
割とやる気のある人とばかり出会ってきましたが
時折クリエイターとしてこのゆるやかな自殺しようとしている人を見かけます。
正直とても悲しい気持ちがするんです。
時間が経てば自分で気づくかな?なんて遠目から見守ってみたり
これは声をかけた方がいいなってたまに声をかけてきました。
だけど、自ら死に進もうとしている人を僕が止めることはできません。
だって常時見てないといけないわけですから。
最後に。
ちなみにこの話は
“クリエイターとして生きるつもりがそもそもない”
“趣味でうだうだやってるのがそもそも好き”
って人はあんまり気にしなくて良いと思います。
基本的に趣味ならなんでも許されますからね。
(反社会的でなければ)
この話は、クリエイターとして潜在意識として将来的に「離」の領域になることを求めてるのに
「守」「破」から目を背けてる人に向けて書いてると思ってください。
ちなみに最近ツイッターでちらっと書いた
「トイレそうじ」の話も
守破離の話と通じています。
近いうちにこの話も書きたいと思います。